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邪馬台国 大和の新都と九州北部の旧都




当説は大和説であると同時に、二つの邪馬台説でもある。大和説は現在最も信ぴょう性が高いと見られている説である。二つの邪馬台説は、邪馬台(やまと)と呼ばれる地名が九州北部と畿内の二ケ所にあったという説であり、大和岩雄など一部の論者により主張されてきた。

当説は、二つの邪馬台説を基に、その両方を含む領域国家があったとする考え方である。これにより様々な邪馬台国説にある矛盾点を減らす事ができる。当説は通常の邪馬台国論争と論理構造が違い難解である。上図左右の構造の違いが重要である。

現在の邪馬台国論争において、論争の元となる資料の混乱を「そのまま」捉えた議論は少ない。二つの邪馬台説は混乱をそのまま捉えた数少ない説であり、論争そのものを抑制できる。当説もその一種である。

二つの邪馬台説の詳細は新邪馬台国論(大和岩雄)に載っている。ここでは簡単にその内容を引用する。喜田貞吉は1930年に九州と大和にあった時代の異なる二つの邪馬台国を魏志の著者が混同したと主張した。橋本増吉は1956年に二つの邪馬台国が同時代にあり、九州には女王が、大和には男王がいたと主張した。そして魏志の著者がこれを混同したとしている。久米雅雄は1986年に九州の女王が卑弥呼で、大和の男王が卑弥呼の弟だと主張した。これらに対し大和岩雄は、九州の王は卑弥呼で、大和の王は台与だと主張した。そして二人の統治の間に九州から大和への遷都が行われたとしている。これは二つの邪馬台説に東遷説をあわせたものと解釈できる。

これらの考えはすべて通常の邪馬台国説と同じく都市国家レベルである。大和岩雄は邪馬台国の広狭二義(都市と領域国家)を指摘しているが、解析は都市中心である。邪馬台国論争の混乱は資料の混乱に基づいており、二つの邪馬台説はこの状況でも比較的穏当な結論を出す。九州北部を示す資料も畿内を示す資料も多い中で、両方が別の邪馬台国なら大きな矛盾は回避できる。ただし邪馬台が二つあるというのは整理された結論とは言えない。

ここで邪馬台国という都市から、邪馬台連合国という領域国家へ拡張する。邪馬台連合国という「領域」国家内に中心となる都市が二つある事になり、二つの邪馬台よりも不自然さは少なくなる。この二つの都市はどちらも「都」と解釈できる。一つの国に二つの都というのは矛盾するように聞こえるが、九州北部の「旧都」と畿内の「新都」があったと考えれば矛盾する事はない。



初期の領域国家であれば、その内部に都市間の抗争があるのはむしろ自然である。考古学資料や記紀などを検討すると、九州北部と出雲の激しい抗争が見えてくる。領域国家としての邪馬台連合国内部は混沌とした状況になり、残される資料も混沌とした内容になる。そのため邪馬台連合国の実情を現代でも特定できないという状況が生まれたと解釈できる。

近年考古学的発掘の進展により纒向遺跡の重要性が明らかになって来た。ここに邪馬台連合国の都があったのはほぼ確実だろう。大和朝廷の都も畿内なので、邪馬台連合国は大和朝廷の初期段階となる。しかし纏向が絶対的な中心地だったとは言えない。この時期の資料は九州北部にも大きな比重があり、少し前までは九州北部が中心地だった。よって九州北部の「旧都」と纏向の「新都」という考え方は資料の状況に一致している。

邪馬台連合国 都市国家から領域国家へ




邪馬台「国」とは何だろうか?現代における国は特定領域を広く支配する領域国家である。古代ではこのような領域国家の成立以前に、都市レベルの国が乱立している都市国家が存在した。古墳時代に大和朝廷が成立すると、日本国は領域国家になった。弥生時代にも国は存在していたが、これは狭い地域のみを支配する都市国家だった。邪馬台「国」はちょうど中間にあり、どちらとも解釈が可能である。

邪馬台国論争において邪馬台国の「位置」を示す場合、対象は都市レベルになる。つまり邪馬台国が都市国家である事を前提にしている。九州説でも畿内説でも、その「国」の大きさはせいぜい数県レベルであり、領域国家としては小さすぎる。

この考え方を根本的に変えて、邪馬台国が領域国家を形成していたと考えると、九州説と畿内説の根本的矛盾を回避できる。大和朝廷が古墳時代に全国を統一するので、邪馬台国はその前身と言う事になる。

ただし魏志倭人伝において「国」は都市の事であり、領域国家レベルでの適切な名前がない。公式な外交で使われているのは「倭」だが、これは日本全体を示すので、まだ全国統一されていない状況では不適切である。よって邪馬台国を中心とした領域国家を「邪馬台連合国」と呼ぶ。

邪馬台連合国の都である邪馬台国は畿内でほぼ間違いない。よって当説は畿内説の一種になる。しかし都市としての邪馬台国よりも、領域国家としての邪馬台連合国を重視するため、畿内説とは本質的に違うものになる。このような見方で分析していくと、内部対立の中で苦闘する初期の領域国家像が浮かび上がってくる。

資料の信頼性


この時代の資料で絶対的な信頼を置けるものはない。それは文献でも考古学的資料でも同じである。全ての資料を総合的に解釈した方が良い。

最も信頼できるのは中国史書であり、次が朝鮮の広開土王碑だろう。特に年代を信頼できるという点で重要性が高い。しかしこれらは外国人の手によるものであり、決して全面的に信頼できるものではない。特に中国史書にある名前は日本語と音が違うため、これだけを論拠にするのは意味がない。「邪」という文字は、上古音ではngiag、中古音(yia)ではziaとなる。日本語化すると、ジャ、ニャ、ジャグ、ニャグ、ヤ、イア、ジアなど解釈すればきりがない。

日本の記紀における信頼度はそれよりかなり落ちる。特に年代に関しては全く信頼できない。ただし記紀の中でも支配者の系譜や戦争のような中核部分は、他の資料と矛盾していない。よっていこれらは参考にしてよいと思われる。

考古学資料は、詳細を文献と照らし合わせる事がほぼ不可能である。年代や埋葬者等が明確でないからだ。よって文献との照合が可能なのは概略のみになる。

例えば卑弥呼の墓は径百余歩と魏志にあるが、「歩」が一歩か二歩か等の問題があり明確でない。また多くの古墳から選択するには大きさだけでは不十分であり断定できない。魏志の金印が出たとしても、後世の人が入れたかもしれない。伝承(天皇陵や、葦中山=ヤマトトトヒモモソヒメなど)も明確でない。古墳の作成年代も明確ではなく、埋葬者を判別する材料にはならない。

また三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡かどうか判定できない。作成年代や作成場所も不明確だが、それが明確になっても伝播経路や伝搬時期ははわからない。

よって単独の資料だけで検討しても意味がない。重要なのは全体像である。各資料の概略や重要点を抽出し、他の資料と矛盾しないように全体像を類推するのが、正しい検討方法だと思われる。

魏志の行程


● 帯方郡から不彌国



ここまでの行程についてはどの説も大差ない。

伊都は女王国以北(魏志方位)の中心地であり、この近くの記述が他の記述よりはるかに詳細である。九州北部が中国朝献の中心的役割を担っていたと推測できる。これは魏志の解釈において重要である。

一里は約70m(短里)としたが、大まかな値であり詳細は不明である。他の記述と比較しても同じ単位だと言う保証はない。このような細かい点を論じるのは意味がない。

末廬−伊都−奴までで、方角が反時計回りに45度程度が狂っている。これは次の行程の解釈で重要になる。

● 投馬国以降



この先の行程には明らかな不備があり、どこに向かうのかわからない。前の行程で既に方角が狂っているので、同じように方角が間違っていると解釈すべきである。すると畿内に向かうのが最も自然になる。邪馬台国が会稽東冶(福建省福州付近)の東とあるのも、同じような方角の誤りと解釈できる。

行程の経路もよくわからないが、列挙されている余旁国が邪馬台(畿内)までの行程を通ると解釈すると、その中の邪馬が邪馬台を示すと類推できる。この中に投馬国がないので、投馬国は別経路となる。結果として余旁国は瀬戸内海の北側になり、投馬国は出雲になる。狗奴は畿内の先にある東海地方になる。

● まとめ

以上の分析によれば、邪馬台連合国の範囲は九州北部、中国地方、近畿地方までという事になる。この状況では西日本も統一されておらず、領域国家としては頼りない姿である。

また魏志の記述は九州北部が中心で、それに畿内までの行程が少しだけ加わり、出雲付近の記述はほとんどない。この記述の差は、中国朝献を行ったのが九州北部系の勢力であるためと解釈できる。

既存の畿内説のように邪馬台国が邪馬台連合国の中心だと考えると、上記のような解釈はできず、魏志の記述と不整合が生まれる。領域国家としての邪馬台連合国を重視し、その中に九州北部系の強力な勢力がいると考える事で、初めて魏志の記述を矛盾なく解釈できるようになる。魏志の記述が畿内の邪馬台国を中心としたものになっていないのは、邪馬台連合国が不安定さを抱えているためだと解釈できる。

記紀の領地




記紀の記述は魏志に比べてはるかに不確かだが、主要な戦闘と領地の拡大は重要項目なので、信頼できる可能性がある。

神武東征の出発時に瀬戸内での戦闘がなく、さらに吉備に3年滞在して軍備を増強したとある(日本書紀)。これは九州北部と吉備が同盟関係にあった事を示している。また神武東征の終了後に神武が出雲系の皇后を娶っている。これは九州北部と出雲が東征の後に同盟関係を結んだ事を示す。神武東征の軍勢は九州北部と吉備の同盟軍であり、東征後に出雲も加わり西日本の主要地域による連合国家が成立した。九州北部勢力による単独の征服ではない。

神武の時代は東西の勢力が伯仲しており、大和朝廷は優位に立っていない。神武の時代の出雲は同盟国であり、必ずしも大和朝廷に従属していないので、大和朝廷の内部も安定していない。

崇神の時代に初めて出雲が従属し、全国的にも大和朝廷が優位に立った。九州北部と出雲の対立は神武時代から崇神時代の最重要事項であり、最大の不安定要因だった。

その後、景行の時代に四国と東北を除いて全国制覇した。四国遠征の記述がないのは瀬戸内の海賊討伐が難しいためだろう。ヤマトタケルが海賊らしきもの(記紀では渡りの悪神)と戦った記述がある。ヤマトタケルの蝦夷(宮城付近?)遠征は孤立していて、この地を征圧したとは思えない。それ以降は朝鮮半島との外交と戦争が続いていく。

このように記紀の領地拡大をまとめると、神武東征時の領地と邪馬台連合国の領地がほぼ一致する。卑弥呼擁立以前に倭国乱の記述があり、これも神武東征に一致する。連合の過程や不安定さも整合している。よって邪馬台連合国は神武から崇神までの時代と解釈できる。

祭器と首長墓


● 1〜2世紀



考古学資料の詳細を根拠とする事が難しいため、国家を代表すると思われる祭器と首長墓の分類を検討する。

この図は新邪馬台国論(大和岩雄)の引用であり、以下も同様である。

この時代は各国並立している。勢力が4(以上)に別れ、他の考古学的資料からも戦国時代であると思われる。

ここには吉備や関東のような小勢力がある。近藤喬一説によれば、祭器は広形銅矛(長崎異島)、中細形銅剣(島根荒神谷)、平形銅剣(愛媛古田)、近畿式銅鐸(和歌山荊木)、三遠式銅鐸(静岡悪ヶ谷)、有角石器(千葉御林跡)とさらに細かい分類になる。いずれにしても統合性のない状態である。

● 3世紀前半



九州から近畿、日本海側、東海から関東の3大勢力に分断されている。

ここが邪馬台連合国の時代だと思われ、九州から近畿に出雲を加えると魏志の記述とほぼ一致する。出雲が日本海側の勢力として別れているのは、邪馬台連合国の本流である九州北部系と完全に同盟していない事を示している。

出雲で銅剣や銅鐸などが大量に出土するのは、東西対立の中で中間的な状態にあり、キャスティングボードを握っているためと思われる。

● 3世紀後半



この時代になって初めて全国統一がなされている。

統一したのは前方後円墳を持っていた九州から近畿の勢力、つまり大和朝廷である。

この時代に初めて日本統一がなされたのであり、それ以前の邪馬台連合国は未統一の状態である。

中国史書による年表




中国史書と広開土王碑を中心にした年表を示す。

4世紀のみ記紀から見た特徴を併記するが、年代は類推である。また考古学的な時代区分を併記した。

中国史書は他の資料と比較すれば信頼性が高いが、断片的情報しかなく明確ではない。ある程度明確なのは、九州北部を中心とした都市国家から、畿内を中心とした領域国家への変化である。邪馬台連合国を初期の領域国家とすると、他の資料と整合性の高い解釈が得られる。

記紀による年表




記紀から支配者や戦争のみを抽出した年表を示す。これらはある程度信頼性があると思われる。初期の大和朝廷では男性天皇と女性神官という流れがずっと続いており、この構造が重要である。

●は日本書紀、▲は古事記にしかない記述、○は中国史書、△は朝鮮史料の記述、他は記紀のどちらにもある記述である。記紀の年代は明らかに誤っているので、同定できる年は少ない。それ以外の年は推測である。

大きな戦争は統一戦争と見るのが自然である。よって倭国乱を神武東征、卑弥呼の死と混乱を欠史八代と推定する。

神武の遷都後に天神を祭ってるが祭主が不明である。その後の例から見て祭主は神武の娘、綏靖の姉妹であるはずである。この「忘れられた祭主」を卑弥呼と推定する。この時代の九州北部系にとっては卑弥呼が最重要人物だが、天皇ではないので後世になるとそうでもなくなった。そのため中国史書と記紀で不整合がおき、卑弥呼は「忘れられた祭主」になったのだろう。

卑弥呼の弟は綏靖、台与はヤマトトトヒモモソヒメになる。ヤマトトトヒモモソヒメとイクタマヨリヒメは日本書紀では別人扱いだが、同じ三輪山伝説を持つので同一人物だろう。

魏志の記述は九州北部が中心なので、中国朝献を行ったのは九州北部系である。おそらく権力強化のためだろう。そのために出雲系の綏靖でなく卑弥呼を王と主張したのだと思われる。他の天皇は九州北部系なのに、綏靖のみ出雲系である事は重要である。ここで九州北部系と、大和の都にいる天皇との間に断裂が生じる。まさにその過程で中国朝献が行われた事になる。この大和朝廷内の混乱が、魏志の記述の混乱の原因と思われる。

その後、崇神の統治下に出雲系は打ち倒され、九州北部系が勝利した。これにより初めて日本の主要地域を抑えた統一国家が成立した。

東遷と旧都・新都


魏志の記述は九州北部を中心としているが、都は畿内にある。記紀には神武天皇の東征と東遷(九州北部から畿内)の記述がある。九州北部と畿内(近畿)の地名が一致している。三種の神器(鏡、勾玉、剣)は九州での出土が多い。これらの事項はすべて都が九州北部から畿内に移った事を示す。

大きな遷都は、鎌倉、室町、江戸など大きな時代の区切りで起こる。弥生時代から古墳時代(大和朝廷)の区切りなら十分起こりうる。区切りでなく弥生時代や古墳時代の途中で大きな遷都があったと考えるのは不自然である。邪馬台連合国の時代に東遷が行われたと考えるべきだ。少なくとも邪馬台連合国成立時、つまり大和朝廷成立時に東遷が行われた。記紀の年表が正しければそれは神武東征の直後という事になる。

卑弥呼の時代には旧都(伊都、糸島)と新都(邪馬台、大和、纒向)の二つの都があった。遷都したばかりで新都は未発達であり、旧都が力を保っていた。江戸時代初期の寛永文化でも中心地は京都だった。それと同じように、新都は政治の中心地で、旧都は文化や経済の中心地だったと思われる。このような不安定な状態が九州北部説と大和説を対立させる原因になったと思われる。

また神武天皇の東遷は、旧都(天孫降臨)が日向(福岡市西区、糸島のすぐ東)で、新都が纒向になる。考古学的に見ても糸島、纒向とも大きな遺跡がある。イト、ヤマトとも末尾がトであり、漢字の都を持ってきたのではないかとも思われる。イ、ヤマが国名(地方名)、イ都、ヤマ都が都の名前になる。漢書の委、志賀島金印の委もイ、イ都の都を取ったもの、魏志の余旁国にある邪馬(ヤマ)はヤマ都の都を取ったものとも考えられる。ただし中国語の音は日本語と異なるため明確ではない。

まとめ




邪馬台連合国の時代は都市国家から領域国家への過程にあり、領域国家である邪馬台連合国も不安定な状態にあった。邪馬台連合国は初期の大和朝廷であり、九州北部系と出雲系が内部抗争をしていた。朝献を行ったのが九州北部系であるため、都の位置を同定する事が難しくなった。

西日本の主要部を征圧したが、同盟国の出雲を抱えた不安定な政治体制下にあった。九州北部から大和に遷都したばかりのため、大和にある「新都」は未発達で九州北部の「旧都」が力を保っていた。邪馬台連合国は九州北部系を中心とした大和朝廷であり、九州北部から大和への時代の流れがあった。不安定な状態ではあるが、今につながる日本国という領域国家の始まりの姿であろう。

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